娘を亡くしてから、私の中で大きく変わったことがあります。
「私の中の大きく変わったこと」とは?

それは、「日常の幸せを感じる感度」です。
あの出来事のあと、少なくとも一年ほどは、心が完全に止まったような状態でした。
ふとした瞬間に涙が出る。好きだったウインドウショッピングも楽しくない。欲しいものもない。
小さな子どもを連れている人を見るだけで胸がえぐられるようで、周りの人がみんな敵のように見えたこともありました。
今振り返ると、あれはきっと、うつ状態に近かったのだと思います。
それでも、何とか日常を保つために、私は自分を忙しくしました。
仕事を始めたり、PTAを引き受けたり、「考えない時間」を意図的に作っていました。
「私は、現実から逃げているのかな」と思ったこともありましたが、それは逃げではなく、当時の私にとっては「自分を壊さないための手段」だったのだと思います。
日常の何気ない瞬間に感じる「幸せ」

そんな状態から少しずつ時間が経ち、気づけば今、こんなふうに思う瞬間が増えました。
子どもと出かけているとき。
家族でご飯を食べながら笑っているとき。
発表会で子どもが一生懸命頑張っている姿を見ているとき。
「ああ、幸せだなぁ」と、ふと感じるのです。
以前の私は、正直に言うと、よく人と比べていました。
実家が近くて助けてもらえるママ友。
旦那さんが積極的に育児に関わってくれる家庭。
「なんで私だけこんなに大変なんだろう」
そんな気持ちになることも多かったと思います。
でも今は、「みんな、きっといろいろあるよね」と思えるようになりました。
頭ではなく、体で知ってしまった

私は、「日常が当たり前ではない」と、頭ではなく体感で知ってしまいました。
多くの人は「失うかもしれない」と想像はしても、実感はできないまま生きていると思います。
正直、「これは体験した人しか分からない」と思っています。
日常の瞬間が「ただのイベント」じゃなくて、はっきり価値のあるものとして感じられる。
この変化は、「前向きになろう」と努力して得たものではありません。
むしろ、どうしようもない現実を受け止めた先に、自然と残った感覚です。
「幸せの感度が上がった」から「悲しみが消えた」わけでは決してない

でも、この「幸せを感じる感度が上がった状態」と、「悲しみが消えた」は別物です。
これから先も、ふとした瞬間に強く引き戻されることは普通にあります。
特に節目(年齢、行事、似た子どもを見たときなど)は波が来やすい。
もしそのときにまたしんどくなっても、「まだ乗り越えてない」とか「後戻りした」とは思わなくていいんじゃないかな、と思っています。
それは回復が足りないんじゃなくて、「大事だった証拠が残り続けているだけ」。
むしろ今の私は、
以前は「比較して苦しくなる」
今は「目の前の時間に価値を感じられる」
これは“失ったから得た”なんて軽く言えるものではないけど、確実に私の中に残っているものだと思っています。
「立ち直る」ことなんてない

きっと私は、立ち直ることは決してないと思います。
でも、悲しみと折り合いをつけて、生きていくことはできる。
というか、そうやって生きていくしかない。
きっと私は、無理やり前向きになったわけじゃなく、ちゃんと底まで落ちて、現実を全部引き受けた。その上で、今の感覚にたどり着いたのかな、と思っています。
「人生は、死ぬまでの暇つぶし」と言われることもありますが、
亡くなった娘に胸を張れるように、自分なりに精一杯生きていこうと思っています。

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